個別記事の管理2015-11-06 (Fri)
 急にひらめきました。
 子供のころから赤毛のアンにひかれた理由。日本でなぜあれだけ赤毛のアンが読まれているのか、世界的にも珍しいといわれているのはどうしてなのでしょうか。
 もちろん、村岡花子氏の名訳があるでしょう。

「もし私が男の子だったら」

 この言葉かなと。
 赤毛のアンは、男の子が働き手としてほしいという農家の兄妹の家族に間違えて引き取られます。
 しかし養父に
「一ダースの男のこよりもアンがいい」
といわれるようになります。

 女二人姉妹の長女のローズマリーは、親以外の周囲の人の男だったらという視線を感じつつ生きてきました。
「どうして女だとしてはいけないのか」
「どうして男だったらといわれるのか」
 小中学校時代男子と比較されると俄然負けん気が出ました。実際に勝てるというものではありませんが。特に運動能力が低いローズマリーは男子との差が出る体育が一番嫌いでした。
 ちなみに父親は体育教師という最悪の環境でした。
 ローズマリーよりも運動能力が高かった妹がなぜ「男だったら」といわれないのか、そのあたりも気に入らなかったと思います。

 たぶん性別による自分の存在価値を認められないまま、大人になったのだと思います。アイデンティティの確立に性別がかかわった例でしょうか。

 そういう潜在的な悩みの前に、赤毛のアンが現れたわけです。目前ではっきりと「男の子ではないのはなぜ」と養母に言われながら、養父母にとって価値のある女の子になろうとする赤毛のアン。そして結果的にその価値を勝ち取る姿に、憧れとうらやましさを感じたのではないかと思います。

 女の子であってよかったと、自分で思いながら、なぜ周囲の期待する男の子でなくて女の子に生まれたのかと悩みだったのかなと思います。
 今も性に関するマイノリティのことが気になるのは、自分自身が性別に悩んだからだと思います。周囲の期待と違う自分をどう認めていくのか、そんなこと気にしなければ全く問題になりませんが、気になる人は気になるのです。
 
 両親は別に男子でなくてもいいと思っていたのかそのあたりはハッキリとしませんが、父親が男子を期待していたことは大人になってから知りました(男子の名前は決まっていたが女子の名前は決めていなかった)。それを知らせなかったのはやはり周囲の視線を気にしている子供のことを知っていたのだと思います。
 ですから現実的に女子で両親の愛がなかったわけではありません。可愛がられて育ったのだと思います。ただ、ローズマリーは理性的にそれを理解はできますが、感情として感じることができません。どうもそういう傾向があるようです。

 赤毛のアンはそういう自分の悩みを体現する小説であったのだろうと思います。昔も今も自分の存在意義を見つめることは悩みの種なのでしょうか。
 日本は、世界でも女性のデータ的な社会参加が少ないといわれます。閣僚や管理職、会社のトップなどが圧倒的に少ないです。経済大国、エコノミックアニマルといわれる日本社会を現実的に支えているのは女性だとローズマリーは思いますが、表向き認められないと感じる、周囲がそう感じていないのではないか、そんな思いが日本女性が赤毛のアンにひかれる理由なのではないかと思いました。
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